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 木曽街道六拾九次 昔と今     浮世絵の解説
                                            制作 中山道69次資料館
                                                   
                                                    無断転載はご遠慮下さい

         その1 (日本橋〜 塩名田)
                              その2 (八幡〜 大井)      その3 (大湫〜 三条大橋)

英泉画 日本橋 (日本橋北詰の日出)
     
雪晴れの日本橋に江戸橋方向から朝日が昇り、川の左側は魚河岸で、橋の上にも魚を商う人々が混じる。右端の三度笠は、中山道の旅に出る英泉本人とされ、中央の傘に(ひつじ)の字が入るのは描き始めた天保6年未年を意味する。今は首都高速が覆い、空を失ってしまった。
 
 英泉画 板橋 (庚申塚立場から板橋宿)

中央は道標を兼ねた庚申塔で右王子道と読めることから、右側は巣鴨庚申塚の立場茶屋である。左端の傍示杭は宿の入口を示し、板橋宿を接近させて描き、奥の森は加賀藩下屋敷となる。今も右の王子道を入るとすぐ庚申塚があるが、板橋宿は正面1.5km先である。            
     

           
                         英泉画 蕨 (戸田の渡しから下戸田)

       表題の戸田川は荒川のことで、江戸防衛のため橋がなく、下戸田村が運営し戸田の渡しと呼ばれて
      いた。人馬を乗せた満員の船は南岸の志村から下戸田へ棹さし向かい、対岸に運賃を徴収する川会
      所が描かれている。上流100mに戸田橋が架かり、今は静かな水面となる。 

            

 
 
                         英泉画 浦和 (山口橋南側から遠望)

        橋の袂に蔵を持つ家を描き、旅人は中山道を、馬子は道標から脇道に入る。類似の風景が『分間
      延絵図』 にあり、橋は山口土橋、馬子は荒川の道満河岸へ向かい、遠景中央に浦和宿、左に浅間山
      まで描く。今は都市化が進み遠くは見えないが、旧家は米屋として残る。

             

 
                         英泉画 大宮 (針ヶ谷庚申塔から西望)

      浦和で浅間山を描き、大宮では同じ位置に富士山を描く。針ヶ谷は関東周辺の山々がよく見え六国見
     の名で呼ばれ、左の屋根付きの青面金剛は針ヶ谷庚申塔で、右の土手道は与野道である。都市化が進
     み山々は見えなくなったが、今も覆屋に納まる庚申塔がある。

            


                            英泉画 上尾 (加茂神社沿いの農作業)

       唐箕を使って米を選別する様子は江戸育ちの英泉には珍しかったと見え、武士と供の者を振り返らせ
      ている。幟に加茂大明神とあり、旅人が立ち寄ろうとしている茶屋は近くの天神橋の立場茶屋を加茂神
      社の隣に移して描く。今も中山道沿いに鎮守の森が保たれている。

            

  
 
                            英泉画 桶川 (加納天神道の分岐点)

      絵師の落款を欠く後摺しかなかったが、英泉画と入る初摺が平成18年にアメリカで発見された。老人が
     指を差し道を尋ねるのは、『道中細見記』などで紹介される薬湯のある加納天神道への迂回路である。都
     市化が進むが、加納付近では今も麦畑や紅花畑が見られる。
  

            

 
     英泉画 鴻巣 (吹上の縄手道と富士山)

       
榎が植わる縄手の中山道を虚無僧や商人が行き交う。表題は吹上富士遠望で、吹上から見た富士
山を実際より大きく描き、左右に丹沢と秩父の山々を配する。中山道から富士山が左前方に見えるのは吹上から榎戸の間だけで、ジグザグの曲がった道も名残を留めている。
   

 
                          英泉画 熊谷 (久下の茶屋と権八地蔵)

       左に茶屋、中央に荒川、右に熊谷堤が延び、遠景に秩父の山々が描かれる。右の道標は右おし
      げうだ道 左深谷
 と書かれ、久下の茶屋みかりやから西を望み、右端に南300m離れた権八地蔵
      を書き加える。今は荒川の高い堤防ができ、茶屋跡から西を遠望できなくなった。

  
   

             


                             英泉画 深谷 (深谷宿桝形の飯盛旅籠)

       東海道に次ぎ中山道も当初広重が描く予定であったが、妖艶な美人画で人気の英泉が担当し、深
      谷宿で得意とする絵を描いた。飯盛旅籠が軒を連ねる右側で中山道が直角に曲がるのは、桝形であ
      る。今も鮮明に桝形が残り、赤く塗られた鐘楼が往時の艶めかしさを甦らせる。

            

 
     英泉画  本庄 (神流川橋と上毛三山)

桶川同様、落款のある初摺が近年発見され、左下に渓斎画保永堂の印が入る。神流川には仮橋と
舟渡しがあり両岸に見透燈籠が建ち、遠景は上毛三山(妙義山、榛名山、赤城山)で、茶色の浅間山ま
で入れる大パノラマである。今は橋を見透燈籠に模した親柱で飾る。
       
   

 
                          広重画 新町
 (温井川に架かる弁天橋)

      日本橋から本庄まで11点連続で武蔵国を英泉が描き、上州に変わり初めて広重画となる。右の橋が
      中山道の弁天橋で、背後に円錐の赤城山と右には日光の連山続く。新町宿西を流れる温井川の川床
      から北を望む構図のうち右岸の崖は広重流にデフォルメしている。

             

     
 
                          英泉画 倉賀野 
(烏川沿いの倉賀野河岸)
  

       烏川に合流する小川や水門で遊ぶ腕白小僧を茶屋に憩う旅の女性が見入る、英泉流の風俗画で
      ある。小川は宿を流れる五貫堀、筏は材木を船は米を江戸へ運んでおり、倉賀野河岸の背後は上武
      国境の山々である。鉄道敷設以降、水運が全く見られなくなり寂しい。
      

            

 
                          広重画 高崎
 (碓氷川・烏川の合流点)

       保永堂版による広重画は高崎しかなく、英泉に代って広重が最初に描いた作品である。烏川に左か
      ら碓氷川が合流する地から榛名山を望む。右対岸は高崎城の土塁であり、背後の烏川に架かる橋が
      唯一中山道を示しているが、川の手前の茶屋と街道は創作を加える。


           

 
 
                          英泉画 板鼻 (板鼻堰と宿の東入口)

       表題は「木曽海道六拾九次之内」で、海を通らないのに海とするのは「東海道五拾三次之内」で成功
      した広重の表題であるが? 漢画風の松は英泉であり、絵師の落款を消し版元が広重画に見せかけ
      て売った。板鼻堰に橋が架かり宿入口が見え、今は板鼻川橋が架かる。
      

              

 
                            広重画 安中 (逢坂と琵琶の久保)
           

       坂道を大名行列の先頭が進み、右は谷底平野である。江戸から初めて出逢う本格的な坂が逢坂で、
      数軒の立場茶屋があり、右は九十九川に落ち、坂を上ると左は碓氷川の崖上であった。絵に描かれ
      る竹林と梅林は今も目立つが、国道の大幅改修により坂道はなくなった。


            

 
                          広重画 松井田 (五料の丸山坂と祠)

       松井田宿は信州産の米の集散地であり、米俵を付けた馬が丸山坂を上る。大木の下の祠は夜泣
      き地蔵で、遠くの山は裏妙義になるが? 妙義山の荒々しい特徴が全く出ていなく、後摺りでは山を
      消している。今は地蔵に履屋はなくなり、茶釜石が移され加わる。

           

      
 
                          英泉画 坂本
 (刎石山麓の坂本宿)

       英泉が描いた絵に版元が広重と同じ表題を入れているが、さすがに広重画とはせず板鼻と同様に
      無款である。鳥瞰図のため、平入りの多い家並みと道の中央を流れる宿場用水がよく表現される。
      宿の正面にある特異な山容の刎石山を背後に移す以外は写実的である。


           

 
                            広重画 軽井沢 (軽井沢宿の西はずれ)

       暗闇の中に焚火が立ち昇り、提灯の光と共に辺りを照らし出し、光と闇を巧みに演出している。右の
      家並みは軽井沢宿であり、背後の山は浅間山説があるが? この地から山頂しか見えなく、宿の北に
      ある愛宕山である。今は木や建物が多くを隠すが、愛宕山は見える。
              

           

 
                            英泉画 沓掛 (湯川東岸の左浅間)

         浅間おろしに襲われ、旅人も中馬(牛)も難渋している。家並みは沓掛宿、左の川は湯川であり、
        この地だけ西に向かう旅人が浅間山を左に見、左浅間と呼ばれた。英泉は次の追分で浅間山を
        強調したいがため、驟雨(しゅうう)で山を敢えて隠している。
        

            

 
                          英泉画 追分 (浅間山麓の追分原)

          浅間山を背景に人馬が進む。追分原は馬子唄の追分節が誕生した地で、馬子と馬を大きく取り
         上げ、浅間山はデフォルメして急峻に描く。絵の松並木が今はないため、資料館の中山道沿いに
         復元していた時、この絵を見て、電力会社は電柱の移動で協力してくださった。


           

 
                          広重画 小田井
 (前田原の荒野より南望)

          荒涼としたススキ原を勧進僧と家族連れの巡礼が擦れ違う。浅間山麓の人家のない前田原を
         描き、川は山麓を侵食する田切で、背後の山は北の浅間山説があるが? 山容が異なり南に見
         える平尾山と酷似する。今は人家が増え、ススキの荒野は少なくなっている。
               

            

                           
                          英泉画 岩村田
 (平塚より佐久平を北望)

          岩村田だけ副題がなく、英泉が描いた24点中最後の作とされる。喧嘩は版元とのトラブルを、全
         員盲人は英泉の絵を買わない人々を目が見えねぇと表現したのか、異色の作である。榎があるの
         は平塚一里塚、背後に流れ山、佐久平の遠景に富士見城跡と湯の丸山を描く。


             

 
                             広重画 塩名田 (千曲川沿いの茶屋)

           千曲川の渡し場から下流を望み、河畔の茶屋に船頭が集おうとしている。旅人は一人も居なく
          く寒さが身に染む頃である。茶屋の位置に今も塩名田河原宿の川魚料亭があるが、ケヤキは河
          畔に昔からなく、東100mの滝の水隣にあった有名な大ケヤキを書き加える。