ホームへもどる
木曽街道六拾九次 昔と今 浮世絵の解説
制作 中山道69次資料館 無断転載はご遠慮下さい
その3 (大湫〜三条大橋)
その1 (日本橋〜塩名田) その2 (八幡〜大井)
広重画 大湫 (美濃高原大洞の岩) 背負子で柴を運ぶ夫婦がなだらかな高原で、大きな岩を見上げている。美濃高原で有名な二つ岩とする 説が多いが、形が異なる? 花崗岩の露頭が大洞(おおぼら)にあり背景も一致し、広重画大湫を標示す る。無名に近い岩とさりげない風景は現地を見て描いた証拠といえる。 |
広重画 細久手 (切山辻から望む細久手) 濃尾地方では山に囲まれた盆地を久手といい、坂の上から久手を見下ろしている。坂の頂きは見晴台が あった切山辻で、盆地は細久手であり、旅人3人は中山道を往来し、山仕事の夫婦は辻から脇道へ向かう。 松並木はなくなり、今は雑木が茂り遠くを見渡せなくなった。 |
広重画 御嶽 (十本木立場の木賃宿) 木賃宿に憩う情景に広重の貧しい人々への優しい眼差しが感じ取れる。囲炉裏を囲む旅の僧・商人・女巡 礼・草鞋を脱ぐ六部・抜け参りの子供らが集う夕暮れ時を描く。坂道は謡坂、家は十本木立場であり、今も同 じ風景が残り、左の川だけないが昔は用水があった。 |
広重画 伏見 (犬山街道の御妃塚大杉) 中山道から700mも離れた古墳上の大杉を描き、近景の道は伏見と名古屋を結ぶ犬山街道で人通りが多い。 遠景右の屋根は伏見宿、左の屋根は新村湊で木曽川が白く見え、間に中山道の松並木があり、山は兼山城跡 と酷似する。杉は室戸台風で倒れ、今は碑に変わる。 |
広重画 太田 (木曽川と太田の渡し) 飛騨川が合流した木曽川は雄大な流れとなり、筏は木曽の木材を尾張へ、渡し舟は対岸の今渡りと連絡して いる。太田側に舟待ちの旅人が集い、座っている石が化石林であると旅人も広重も知っていたであろうか!? 右に可児の鳩吹山があり、渡しに代わり日本ライン下りの観光舟が航行する。 |
英泉画 鵜沼 (犬山城と対岸の鵜沼宿) 右は犬山城天守閣と大手門、木曽川越しの山麓に鵜沼宿の家並みが見える。城郭や細高い天守閣は『木曽 路名所図会』の挿絵とほとんど変わらなく、動くはずの鵜沼の渡し舟まで同じ位置に描いているのは、動かぬ証 拠といえる。英泉が24点描いて、途中降板させられた理由の1つがここにある。 |
広重画 加納 (宿東はずれから加納城) 加納は美濃16宿で唯一の城下町であり、城主の行列が威儀を正して東へ向って進み、旅人は土下座して迎 える。加納宿東はずれの1軒の茶屋越しに城が見え、他にあるのは松だけである。今は都市化が進み城は見 えなくなったが、宿入口には1軒のだんご屋がある。 |
英泉画 河渡 (長良川鵜飼と金華山) 英泉の傑作として高く評価されるが、河渡は濃尾平野にあり近くに山は存在しない? 中央の山は岐阜の 金華山であり、『木曽路名所図会』長柄川鵜飼船と酷似する。英泉は日本橋から塩尻までの正確さに比べ、 木曽から西6点は現地に行かずに描いた可能性が高い。 |
広重画 美江寺 (美江寺の輪中堤と犀川) 椿が満開の春の夕暮れ時に、川に下る坂道で旅の僧が、野良帰りの里人に道を尋ねる。どこにでもある 鄙びた田園風景を取り上げるのが広重の真骨頂といえ、坂道は五六輪中、川は犀川、屋根が見えるのが 美江寺宿である。椿や竹藪に代わり、今は富有柿が多い。 |
広重画 赤坂 (赤坂宿東入口の杭瀬橋) 雨が上った直後で、傘をすぼめた女性と長合羽を着た旅人が土橋の上で擦れ違う。橋の袂の傍示杭は赤坂 宿の入口を示し、家並みが続く。杭瀬川は今は川幅が狭くなり、赤い欄干の橋が架かる。傍示杭の位置に赤坂 港の川燈台が建ち、橋の東に広重画赤坂を標示する。 |
広重画 垂井 (雨の垂井宿西の見付) 雨が降る中を大名行列が西から垂井宿に入ろうとし、宿役人が出迎え旅人や茶屋の主人は土下座して 待つ。シンメトリーに茶屋・見付の石垣・中山道の松並木を配し、遠近感を持たせている。松はなくなったが、 西の見付を示す標識が建ち、広重画垂井を標示する。 |
広重画 関ケ原 (関ケ原宿の西はずれ) 関ケ原は不破関や関ケ原の戦の史跡、北国街道の追分など特色多い地域である。絵からはそれらの片鱗 も見られなく、どこにでもありそうな茶屋であり、茶屋の看板三五は広重画のうち、東から35番目を意味してい る。国道から離れた西町に唯一、原風景が残る。 |
広重画 今須 (江濃国境の寝物語の里) 江濃両国境の境杭が建ち、寝物語由来の看板が揚がる。今は国境の碑が中山道の南側に建つため、美 濃から近江側を描いたとする説が多い? 境杭があったのは北側で、不破之関屋とある位置に亀屋があり、 遠くの旅人は右から来ており、右に曲がるのは美濃側である。 |
広重画 柏原 (柏原宿の伊吹艾屋) 伊吹山麓にある柏原宿の艾屋の中で、代表的な亀屋左京を描き、右端の福助人形の横に番頭、伊吹山模 型前に手代が居て、客と応対している。左は茶屋を兼業し、金時人形と庭園が見える。今も同じ建物で伊吹 堂の名で艾屋を続け、福助人形や庭園も現存している。 |
広重画 醒井 (六軒茶屋から醒井宿) 宿へ向かう大名行列の最後尾をやり過ごし、農夫が高台で休んでいる。左に茅葺屋根が続くのは中山道 北側に軒を連ねていた六軒茶屋で、奥に醒井宿の西端が覗き、右のなだらかな丘陵は宿の南に続く枝折山 である。中央に描く松の古木は枯れたが、茶屋の1軒が残る。 |
広重画 番場 (東の見付から番場宿) 左の石垣と土塁は宿入口の見付で、番場宿は見付が東西にあった。茶屋の看板がいせやで、西見付近 くに伊勢屋があることから西見付を描いた説がある? 看板のマークは版元伊勢利の商標であり、中山道 が曲がるのは東見付で、背後に宿を代表する六波羅山を入れる。 |
広重画 鳥居本 (摺針峠から望む琵琶湖) 左は望湖堂、右下は臨湖堂で、旅人は摺針峠から眼下に広がる中山道第一の景地を眺めている。広重画の 落款が中山道東半分と同じ画の止筆が内向きである! この絵は東半分の作画時に『木曽路名所図会』を参 考に描いた可能性が高く、広重の画風に欠けて味気ない。 |
広重画 高宮 (犬上川から高宮宿) 地元の女性が背負う背丈より高い荷は名産高宮布で、広重「木曽路写生帖」に同様のスケッチが残る。伏 流する川に水が少なく仮橋は橋板を取り外し、対岸に高宮宿が見える。正面は男鬼山、左遠くの丸い山は 伊吹山で、今は高宮橋が架かり、犬上川は水が少ない。 |
広重画 愛知川 (愛知川に架かる無賃橋) 柱にむちんはし はし銭いらすと示す橋の完成から8年後に描かれた。広い河原は天井川の特徴を持つ大 河の愛知川であり、馬に代わって牛が荷を運ぶのは近畿の風習で、京都に近いことを暗示している。左に観 音寺山、右に五個荘の山があり、今は御幸橋が架かる。 |
広重画 武佐 (日野川に架かる舟橋) 湖東の川が印象深かったのか、描くテーマに事欠いたのであろうか? 高宮・愛知川・武佐と3点続けて 川渡りである。2つの舟を縦にして舟橋としたのは、日野川であり右に村役人が見守り、対岸西横関で橋銭 を徴収する。東横関の堤防に広重画武佐の標示がある。 |
広重画 守山 (吉川に沿った守山宿) 川に沿って宿場の家並みが片側だけあり、左右の山に桜が満開である。遠くの山は三上山であるが、守山 宿の近くに山はない。宿を流れるのは吉川であり、宿内を描くため片側町とするなど脚色が目立つ。旅人は 一人を除いて京都方面へ向かい、終点を意識させる。 |
広重画 草津 (草津川から追分と宿) 家並みが川より低い位置に見え、川には水が少なく小さな仮橋が架かり、天井川の特徴をよく表現する。草 津川と宿の間に建つ常夜燈は東海道が合流する追分で、透視遠近法で描く先には京都境の音羽山が見える。 今は草津川に仮橋を再現し、広重画草津を標示する。 |
広重画 大津 (大津八町から琵琶湖) 右の壁の全は全体の完結を意味し、好評を祈願して大当や金の幟が翻る。空の落雁はHINと読め?! フランス語発音はアン、下に中山道、右の幟はヒの外にロ、隣に重で安藤広重となり、遊び心で完結を祝う。 牛車の道は電車通りとなり、今は琵琶湖が見えなくなった。 |
東海道 三条大橋 (三条大橋から東山) 広重は中山道ではなぜか三条大橋を描いていない。日本橋と三条大橋は69次に入れないが、日本橋を英 泉が描き、東海道では両端を描いているのに? 三条大橋を木の橋脚で描いたため、6年後に現地に立った 広重は石の橋脚を見て衝撃を受け、大津で全とし終わらせた。 |